中野七頭舞とは

 中野七頭舞は神楽舞いの一部で、「シットギジシ」を基本とした舞いであり、発端は天保時代にさかのぼるといわれています。
 当時、神楽太夫と呼ばれた工藤喜太郎は、36名の弟子がいて種々の神楽を舞うことができました。神楽太夫は毎年巡業をし、北は久慈から南は山田、大槌と 舞い歩き、好評を得たと言われています。この喜太郎が神楽舞いの一部を取り入れてこれを基本とし、中野に七頭舞を創始したといわれています。
 演舞する基本は、2人1組の7組で14人です。即ち、「先打ち」「谷地払い」「薙刀」「太刀」「杵」「小鳥」「ササラスリ」の七種類で、これが七頭舞の 語源とも言われています。また、踊りの種類も「道具取り」「横跳ね」「チラシ」「戦い」「ツットウツ」「みあし(鳥居掛かり)」「道具納め」の七つに分か れており、ここからも七頭舞の意味がうかがわれます。当初は神楽で踊られていたのですが、時代とともにうつりかわり、集落の祭典に奉納されるようになりま した。五穀豊穣、家内安全、大漁を祈願して踊る元祖的存在の七頭舞は、勇壮活発な舞いです。